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第4章「園芸商品で稼ぐ日系人たち」

専門誌「茶と珈琲」金川正道著掲載記事

コーヒーに見切りをつけた後に

 サンパウロ市から300㎞、あまり広く知られていないがパラナ州ロンドリーナ市はブラジルコーヒーの新興産地「パラナ」のコーヒー集荷地であり日系人居住者も多い。パラナ河がラブラタと合流する大河であることは有名だが、パラナパネマ河、テイポギ河はそのパラナ河の主流となっており、そのテイポギ河のほとりにロンドリーナ市がある。
 パラナのコーヒーはサントスより質が落ちるが豆の形が揃ってる長所を持っていて、日本へのサントスNo.4はサンパウロよりパラナの豆が徐々にして送られる事情がある。

 さて、ロンドリーナの街は一年中の人口移動の激しいことでも定評がある。新耕地を求め奥地へ奥地へと切り拓かれたブラジルの新興コーヒー農場、その新興産地を中心に急激な発展を遂げた街の多いなかで、このロンドリーナ市はコーヒーとハッカを支えとして開発20年で見違えるような近代都市を形成したといわれる。それだけにコーヒーの収穫時期にふくれ上がる人口は農閑期の数倍に及ぶという変動が繰り返されるのである。

 ロンドリーナを中心として遠々と広がるコーヒー園。その農場の必要物資、食料、機械、衣料品、娯楽機関に至るまですべてを近郊農村の住民は同市に依存している。コーヒーのカゴを三個程買う必要に、ジープを2時間も飛ばしてロンドリーナ市まで来るそういう悠然たる「生活」の中心地なのである。

 「日本人がブラジルの田舎にいる」ことは即ちコーヒー栽培に従事しているふうに思われがちだが、事実は日本人経営のコーヒー農場はブラジルでもごく少数でしかない。前回に少しふれたがコーヒー園の労働者採用には三つのタイプがあり、コロニア/一年契約でコーヒー園の雑仕事や収穫時のコーヒー採取に従事する者、バルセイロ/二年契約の歩合制で栽培を請負い収穫を折半するしくみ。エンプレテイロ/熟練労働者で苗を土地所有者より受取り、苗付け後の重要な四~五年間を世話し、定賃金を受け取る四年契約と四年後により収穫を全部受け取る六年契約など、労働者に有利な契約が行われているようだが(現在でもこのシステムは残されている)実際は提供された土地がコーヒー栽培に不向きだったり、労働者の「根気」が続かなかったりで、日本の移民一世の中でも今なおコーヒー農場で働いているというものはほとんどいない。

 コーヒー栽培よりも日本移民の腕のふるい場として有望でかつ成功を多く収め得た産業は果物や野菜などブラジル在来品種以外の開発であった。ロンドリーナの日本人達、コーヒー栽培にいち早く見切りをつけた彼等はロンドリーナ市周辺のコーヒー園の労働者、サントスなど大都市を控えた地の利を押えて近郊農場に着目した。初めて彼等の作りだした農作物は他のブラジル人にとってどんなに素晴らしい贈り物となったことであろう。大根、カボチャ、キュウリ、トマト、ナス、スイカ、ミカン、パセリ、サラダ等、ブラジル在来のものもあったけれど、ほとんど野生のささやかなものに過ぎなかった。放置しても自然に成育するバナナ、ヤシの実、ネーブルなどのほか、手の掛る作物は現地人には収穫出来なかったのである。

 7・8・9月はパラナのコーヒー収穫時期にあたるが、私がサンパウロからこのロンドリーナを訪れたのもまさにその最盛期であった。サンパウロを夜、長距離バスでロンドリーナに向い、早期に同市へ到着したが、沿道に続くコーヒー畑、およそ八時間の車窓は夜間のせいもあるが単調を極め、変化のない一直線の道路、行き交う車もなく、時折ポツンと点ずる前から来る車のヘッドライトのなかなか近づいて来ないイラダタしいドライブ気分。その繰り返しの果てに、ふと夜明け前のうす暗に、ロンドリーナから一時間余り手前辺りから道路両側を隊列をなしてこもごも作業場へ歩みを進めるコロニアの姿があり、そしてそれがロンドリーナの街に着くまでズラリと続いている様は何ともいえないエキゾチックな美しい姿であった。これらの人々は農繁期り三ヶ月余りをこの地で暮らす移動農務者がほとんどであった。しかしこの採り入れのシーズンこそ、このロンドリーナの最高に活気を呈する時であり、日系人の現金収入の多い時でもある。朝早くから街角を埋め尽くして開かれる市場もふだんのときとは比べものにならない盛況さである。市場でこんな笑い話があった。買い物客も昼近くになると現地人の前を素通りして日系人の売り物の前に黒だかりになるので、私がどうしてかと買い物客に訪ねたところ、こちらの並べ物の方が新鮮だからという。なるほど、日経出店者は野菜が萎れる前に散水を行なって新鮮度の時間を稼いでいた。しかし、現地人などはそのまねをしようとも思わないふうで、並べた商品を放置しているだけだった。これがロンドリーナで週二回開かれるフェラー(市)の素描である。

 プラジルにおける日系人による農作物の開発研究は盛んで、日系人所有の農地は300万ヘクタールといわれ、その主だったものとして著名な東山農場の「ウガンタ蜂によるコーヒー園の病虫害防止成功」野村農場の「小麦新品種開発」その他アマゾンでのジュート、コショー栽培の成功も日系人によるものであった。1958年サンパウロの農業生産高のうち日系人(同州人口4%)の生産高は綿花25%、コーヒー13%、ラミー90%、野菜・果物90~100%であり、リオ、サンパウロ両市の野菜、果物など園芸商品の80%は日系人の手になるといわれることからもコーヒー以外に着目、成功した日系人の姿がうかがえるよう。その他換金作物として米、トウモロコシ、ゴム、コーヒー、ヤシなど永年作物も育てている。

 林業、綿花、砂糖、コーヒーと移り変って来たブラジルの農業も現在のコーヒー中心から少しずつながら脱却しているがコーヒー一本に頼らないための努力は常に続けられていると共にコーヒー不毛地への作物栽培研究も行なわれている。

 私が訪れた一農場と同じように大学で専門の農学と技術を修めた青年のグループを集め、空地に勝手な作物の栽培研究をさせていたが、その契約には「新品種、新作物研究の成功したときにはその作物を栽培し、上りを一定の方法で地主と分け合う」というのが多いらしく、それが " 励み "ながら、また現在を保証されない不安ともなっているのかそのグループも「リオのバナナ粉末工場を見学にゆく」と出掛けたまま帰って来なかったことを覚えている。そういうシステムである限り地主の損害はゼロで、実費でテストを繰り返す経費だけでも省かれてむしろ地主さんが結構得をすることになるわけである。考えてみると、泥まみれのジーパンをはいて今まで何を植えても駄目であった畑に何かを繁茂させ実らせようと果敢に立向って敗れてゆく青年研究者こそ気の毒であった。しかしそれに敢えて不平をこぼさない若者が多いことは国風の違いによるからでもあろうか。